茨城県: 水戸城

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【 概 要 】−水戸城(築城当初は馬場城と称していた。)は建久年間(1190〜99)、大掾資幹が築城したのが始まりとされ以来大掾氏の居城となりました。大掾氏は応永23年(1416)、"上杉禅秀の乱"で鎌倉公方と敵対し敗れ急速に勢力が衰退し、隣接する河和田城主で佐竹氏の一族である江戸氏が水戸城を占拠、大掾氏は府中城に拠点を移しました。江戸氏はこれを機に次第に佐竹氏から独立するようになり対立関係が激化、天正18年(1590)佐竹氏が小田原で豊臣秀吉に臣下の礼をとって領地安堵を確約したのに対し、江戸氏は北条方に組した為、佐竹氏によって各支城、砦、館など撃破され水戸城も落城、文禄3年(1594)、江戸氏は結城氏を頼り落ち延びていきました。常陸国統一を果たした佐竹氏は54万5800石を領する全国8位の大大名となり居城を太田城から水戸城に移し、城郭の改修、城下町の整備など積極的に行います。佐竹氏は関ヶ原の戦いで東西中立を保った為、久保田21万石に減封され、変わって徳川家康5男武田信吉を封じ、10男頼将を経て慶長14年(1609)からは11男頼房が25万石で入封し徳川御三家の中の水戸徳川家(水戸藩)が確立しました。水戸城は連郭式平山城で那珂川と千波湖を天然の堀とする巨大な城郭として改修されましたが、徳川一族の城でありながら権威的な石垣や天守閣(御三階櫓が物見として代用されていました。)が築かれず、櫓などの実践的な施設も比較的少なかったとされます。その分、当時では全国的に見ても最高峰とされた藩校弘道館や日本三大名園の1つとされる偕楽園など文化面が整備されました。現在の水戸城は空掘や土塁、郭や枡形の形状などが一部残っていて薬医門(茨城県指定有形文化財)が移築保存されています。水戸城は昭和58年に茨城県指定史跡に平成18年に日本100名城に指定されています。
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水戸城(水戸市):周辺の見所

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