【 概 要 】−小田城は文治元年(1185)、八田知家が常陸守護に任ぜられ居館を築城したことが最初と言われています。八田氏は建久4年(1193)に多気氏を滅ぼすなど勢力を広げ時知の代で領地の地名から小田氏を名乗りました。室町時代に入ると南朝側に組し北畠親房や春日中将顕国らを迎えるなど南関東の主要拠点として機能しました。小田城内では親房が"神皇正統記"を書き上げるなど周囲では中心的な役割を果たしていましたが戦局が南方の関城付近に変わり親房も移っています。戦国時代に入ると北条氏や佐竹氏といった大大名や隣接する結城氏、多賀谷氏などに囲まれ常に苦戦を強いられ永禄12年(1569)、氏治の代で起こった手這坂の合戦によって土浦に敗走すると、小田城は佐竹氏の手に落ちました。佐竹氏は太田資正や梶原政景、小場義宗といった重臣や一族を配しその度城郭は改修、拡張され現在みる三重の堀と土塁に囲まれた広大な平城が完成しました。しかし、佐竹氏は関ヶ原の合戦で東西中立を保った為、久保田(秋田県)に移封になり小田城は廃城になりました。現在、城郭の大部分は宅地化と田畑になりましたが、郭の形状や本丸の土塁、堀の一部などの遺構が残され国指定史跡に指定されています。
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