【 概 要 】−筑波山は関東平野に突出した独立した山容をしていた為、古代から自然崇拝や山岳信仰などがあったとされ筑波山神社はその延長上に発展したとされます。伝説では東日本で最初に造られた山が筑波山とされ、2つ頂には男体権現(伊弉諾命)と女体権現(伊弉冉命)がそれぞれ祀られていたそうです。常陸国風土記や万葉集、古今和歌集など記録書や歌集のなかでも度々登場し当時から中央にも広く知られる存在で、延長5年(927)にまとめられた延喜式神名帳には筑波山神社の前身である男体権現が明神大社、女体権現は小社に列していたことが記されています。延暦元年(782)、徳一大師が中禅寺を開山するなど神仏混合の時代が長く中世には筑波山麓に多数の堂宇が建ち並んでいたそうです。江戸時代に入ると筑波山は江戸城から見ると北東の方角に当たる為、鬼門鎮護の寺院として幕府から庇護され徳川家康から寺領500石の朱印状を賜り、2代秀忠、3代家光と社殿の造営を繰り返し壮大な境内が創出しました。5代綱吉の代にさらに1000石が加増され計1500石の社領となり日光東照宮(栃木県日光市)や伊勢神宮(三重県伊勢市)などに片を並べました。明治時代初頭に発せられた神仏分離令により仏式が廃され、筑波山神社として独立しています。現在でも随神門(寛永10年建築、三間一戸、楼門形式、入母屋、銅板葺)や神橋(寛永10年建築、桁行1間、梁間4間、切妻、?葺)など神仏混合当時の堂宇が残り雰囲気を伝えています。
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