【 概 要 】−西金砂神社は大同元年(806)に大蔵坊宝珠上人が西金砂山に祭壇を設けて日吉大社から祭神である大己貴神を勧請し奉斎し創建された古社です。宝珠上人は比叡山延暦寺の横川出身とされ、比叡山の麓に鎮座し、延暦寺の鎮守社で天台宗の守護神である日吉大社を天台宗の信仰を広げる為に勧請したと思われます。当時は天台宗の寺院としての性格が強く観音院定源寺が別当寺院となり、千手観音菩薩像が本地仏として信仰の対象になっていました。特に境内は急峻な地形な為、修験僧の修行場となり多くの僧侶が坊を構え修行に励みました。平安時代に源氏の一族である佐竹氏が常陸国に配されると崇敬社となり、治承4年(1180)には佐竹秀義が西金砂神社の境内に本城である太田城の詰城として金砂山城を築いています。秀義は一族ながら源氏棟梁である源頼朝とは対立関係だった事から頼朝の侵攻を受け、金砂山城で籠城戦を繰り広げています。当初は頑強に抵抗したものの佐竹義季が内通した事で落城し以後は頼朝に従うようになっています。その後も南北朝時代の建武3年(1336)にも北朝に与した佐竹氏は南朝方の楠木正家に侵攻され金砂山城で籠城しこれを撃退、室町時代の明応元年(1492)にも山入氏義によって侵攻されるも金砂山城で籠城し再び撃退に成功しています。佐竹氏は金砂山城の堅城ぶりはもとより、西金砂神社の御加護としてとらえ、社殿の造営や社領の寄進など篤く庇護しています。しかし、慶長5年(1600)の関ケ原の戦いの際、豊臣家や石田三成と関係が深かった佐竹義宣は西軍、東軍双方に加担せず、水戸城に籠ったまま終戦を迎えました。この行為は徳川家康の軍令違反でもあった事から義宣は秋田6郡に移封となり、西金砂神社は庇護者を失い、その後は佐竹氏程ではないものの、幕府や水戸藩の庇護を受け信仰を続けました。江戸時代中期に水戸藩では神仏分離が行われ、観音院定源寺に安置されていたに毘沙門天像、不動明王像、持国天像、女神像など仏教色の強い仏像や仏具が麓に境内を構える菊蓮寺に遷されています。
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